私は薄暗い研究室の隅に配置されたソファーに腰掛けていた。寛ぎはしない。寛げる筈もない。私の目の前には実験に没頭している主―ザエルアポロ様がいる。私がここにいるのは、それが命令だからだ。実験が終盤に差し掛かると、私は呼び出される。そして助手を任されるわけでもなく、こうしてここに座らされる。けれど、理由が無いわけではなかった。

「くそっ!」

目の前の主は突然怒鳴り声を上げ、手にしていた空の試験管を床に投げつけた。それは呆気無くパリン、と音を立てて砕け散る。今日のザエルアポロ様はひどく機嫌が悪い。きっとまた実験が上手くいかなかったのだろう。気付けば先程まで使っていた筈の実験道具の数々は、無残な姿で床に散らばっていた。

「…

息を整えると彼はこちらに背を向けたまま、先程とは打って変わって穏やかな声色で私の名を呼んだ。それを聞いて私は、少し心構えをする。チラリ、と左手首に目を遣った。青黒い痣。まだ残っている…

「こっちに来てくれるかな」
「…はい」

立ち上がり、私はゆっくりと足を運ぶ。あと一歩ほどのところまで歩み寄ると、彼はきゅっと私の腕を引き、私の体を抱きしめた。反射的に体が熱くなる。ああ、まだ私は何か期待をしているのだろうか。この後される事なんて、当に分かりきっているはずなのに。

「ああ、…」

猫撫で声で囁きながら、その唇を私の額へ落とし、するすると移動させる。瞼、頬、唇、顎…そして喉元に来たところでその動きを止めた。ふっ、と微笑んだのだろうか、生暖かい吐息を感じて、少し、くすぐったかった。

 
その矢先。そこにまるで電撃のような痛みが走る。

「…!」

彼が喉仏に噛み付いたのだ。痛くて、苦しくて、早く逃れたいのに、抵抗するための腕は後ろで拘束されている。何度も何度も、角度を変え、場所を変えて彼は噛み続けた。その度に喉を削るような、声にならない声が漏れて、それを聞くと彼は楽しそうに笑った。痛みと恐怖で額に冷や汗が滲む。

「その表情、ソソるよ」

しばらくすると気が済んだのか、彼は喉元から口を離し、顔を上げた。数センチの距離。けれどその距離もあっという間になくなってしまった。彼の唇がぬちゅりと私のそれに吸い付く。私は思わず目を閉じた。体は熱くならない。次は舌を噛み千切られてしまうのではないかと、恐くて仕方が無かった。彼の舌がにゅるにゅると口内を這う。私は必死に舌を引っ込める。すると彼は意外にもあっさりとその行為を止めた。恐る恐る目を開けると、彼は軽蔑するような、冷ややかな瞳で私を見ていた。

「ほんと、君は学習しない子だね」

刹那、私は背中を強く床に打ちつけた。押し倒されたのだった。彼が四つん這いになって私の上に跨っている。腕はいつのまにか後ろから頭の上へと場所を変えて固定されていた。

「立場を弁えた方がいい」

束ねられた手首に力が掛けられる。床に散らばったガラス片が刺さっていく。血液が滲み出す。

「い…っ」
「痛いのは生きている証拠だよ」

ほら、こうやって血が流れるのも、と彼は押さえていた私の腕を片方持ち上げて、流れるその一筋を舐め取った。舌の感触に背筋がぞわりとする。

「出来損ないの君がこうして今まで生きてこられたのは、誰のおかげだと思っているんだい」
「申し、訳…ありませ…」
「…しょうがないから今日はこれでお終いにしてあげるよ」

そう言うと彼は掴んでいた私の腕を放して徐に立ち上がった。腕が力無く床に落ちる。また新しい傷口ができる。腕は血でべたべたになっていた。

 
彼が部屋から出て行くことを確認した後、私は体を起こし、ぼんやりと血だらけの腕を眺めた。ああ、また手当てをしなくてはいけない。刺さったままのガラス片を1つ取り除いてみると、ちくりと痛んだ。




090114